エッセイ

Vol.1

裏切り者の日々(一)

日暮 雅通

2013.05.14

 「トラドゥットーレ、トラディトーレ」(翻訳者は裏切り者)という、イタリア語の有名な語呂合わせフレーズがある。そのまま英単語に置き換えると、“Translator, traitor”。完全な翻訳はありえない、どんな翻訳も原文をまったく忠実に伝えることはできず、原著者の意味しているところを裏切ってしまう……というのが、よくある解釈のひとつだ。

 ただ、このままだと語呂合わせの面白さが消えてしまい、それこそ「裏切り」になってしまうので、「翻訳者は反逆者」という訳を提唱した人もいれば、「訳者はヤクザ」という表現をつくり上げた人もいる(前者は『東京新聞』1983年8月20付「ヨーロッパから:土曜通信」の「信」氏、後者は言語学者の金川欣二氏)。

 それはともかく、このフレーズがほとんどの場合「格言」ないしは「警句」と表現されているところを見ると、やはりネガティヴな意味合いでしかないのだろうか。「翻訳者に騙されるな!」とか「翻訳家は見てきたような嘘をつく」などという、流行りの新書のタイトルのように。

 そこまでひどい断罪のしかたではないにせよ、このフレーズは、テレパシーのたぐいで思考をそのまま伝えることのできない、言語を仲介者にするしかない私たちにとっての、翻訳の難しさを表現していることは確かだと思う。翻訳における“壁”は、言語や文化の違いだけではない。何世紀も前の古典を訳すなら時間の“壁”があるし、小説なら、そもそも同じ言語を使う人どうしでも解釈の違いがあるのだから、「原著者の意を正しく汲み取っているか」という“壁”もある。

 その“壁”の問題を、さまざまな国の同業者、つまり“裏切り者”たちと、議論し合ったことがある。今から13年前、シャーロック・ホームズ物語という共通の作品を訳してきた独・仏・露・日の翻訳家が、スイスのマイリンゲンで各国の翻訳事情を報告したのだ。同じ“裏切り者”どうしの傷のなめあいというか、不思議な連帯感をもつことができたのは、貴重な体験だった。

 私自身は、明治・大正時代にホームズなど登場人物を日本人にしてしまった「翻案」のエピソードをはじめ、固有名詞のカタカナ表記や敬語、丁寧語、会話の男女別といった日本語独特の問題などを説明した。〈ボヘミアの醜聞〉という作品では、ホームズが「動詞を虐待して最後にもってくるのはドイツ語の特徴だ」というたぐいのことを言うのだが、これは日本語にも当てはまる、ということも付け加えた。

 ドイツ、フランス、ロシアの訳者も、同じように母国語の独自性による悩みをもっていたが、たとえばロシア語における人名表記の問題は、日本の訳者が西洋の人名をカタカナで置き換えるときの難しさに、似ていた。ロシア語アルファベットの特有性により、シャーロック・ホームズはシャーロック・「ゴームズ」となり、ワトスンは「バトスン」になるというのである。

 〈緋色の研究〉という作品では、壁に血で書かれた“Rache”がドイツ語で「復讐」を意味することが重要な要素になるのだが、(現代)ドイツでは“Rache”は復讐の意味にはあまり使われないのだということも知った。フランスでは、ワトスンの飼っていた“bull pup”(ブルドッグの子犬)は、フランス人にはわからないという理由で、削られてしまったという。

 忘れられないのは、ドイツから来たベテラン翻訳家の、「翻訳者は『クリエイティヴィティ(創造性)』と『テキストへのロイヤルティ(忠実さ)』の間にいる存在」であり、「クリエイティヴな裏切り(トリーズン)をする者なのだ」というひとことだ。そうか、自分はクリエイティヴな裏切り者なのか、と思うと、多少気分が楽になる思いだった。

 私の場合は「英語から日本語へ」という一方向でしかない、いわば狭い意味での“裏切り者”なのだが、それでも前述のさまざまな“壁”に行く手を阻まれることは日常茶飯事だ。何十年やってきても、手練れの“裏切り者”にはなれない。なれないのは、まだまだ日本語表現の能力が足りないからだと思っている。

 そんな私が、ひとつの本を訳すたびに悩んだり発見したりしてきた日本語にまつわる問題を、これから数回にわたって書いてみたい。

この項続く



日暮 雅通(ひぐらし まさみち)

1954年千葉市生まれ。青山学院大学理工学部卒。
英米文芸、ノンフィクション、児童書の翻訳家。日本推理作家協会、日本SF作家クラブ会員。

著書:『シャーロッキアン翻訳家 最初の挨拶』(原書房)。訳書:コナン・ドイル『新訳シャーロック・ホームズ全集』(光文社文庫)、ミエヴィル『都市と都市』(ハヤカワ文庫)ヴァン・ダイン『ベンスン殺人事件』(創元推理文庫)、ラインゴールド『新・思考のための道具』(パーソナルメディア)、マクリン『キャプテン・クック 世紀の大航海者』(東洋書林)など多数。

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