エッセイ

Vol.3

裏切り者の日々(三)

日暮 雅通

2013.07.09

承前

 人名・地名のカタカナ表記については、新聞などでもたびたび話題にのぼるので、気になっている方は多いのではないだろうか。「なぜカタカナにしなければならないのか」「カタカナ表記がなぜ難しいのか」という問題を、もう少し考えてみたい。

 前回書いたように、ヨーロッパの非英語圏の読者は、英語で書かれた小説に出てくる人名・地名を、そのまま受け入れることができる。訳者はIreneをIreneのままに訳すことができるわけだ。しかし「日本語に翻訳」するからには、そのままというわけにはいかないだろう。

 だったら、漢字の読みはどうなのか。読み方がわからないという問題については、漢字も同じなのでは? という疑問をもつ方もいるかもしれない。漢字による難読地名、人名は数多くあるが、いちいちルビが振られていなくても小説を読むことはできるのだから、ヨーロッパ人読者がIreneをそのまま読み飛ばすのと同じではないか、と。

 たとえば、「三田」という地名は関東・関西の両方にあるが、「みた」なのか「さんだ」なのかを知らずとも、日本語人読者は読むことができる。だがそれを英語に訳すとなると、MitaなのかSandaなのかをはっきりさせなければならない。

 とはいえ、まったく同じでないことは、ご承知のとおりだ。表音文字(アルファベット)主体のあちらの言語に対して、表意文字である漢字を表音文字とともに使う日本語では、事情がかなり違う。その違いは、書籍や名簿での索引づくりという作業をしてみると、わかるだろう。

 日本語の文献で索引をつくる場合、その単語をどう読むか、ひらがなやカタカナで書いたらどういう表記になるかが、重要となる。それが並べ替えのキーとなるからであり、「みた」なら「ま行」、「さんだ」なら「さ行」という大きな違いが出てくるからだ。

 その点、英語の文献ならそのまま表にしてアルファベット順に並べ替えればいいわけで、単純このうえない。もちろん、デジタル時代である今は、日本語入力においても、入力時のキーボード操作を認識して自動的にソートキー(並べ替えのキー)にしてくれる機能などもある。ただ、だとしても入力時に読み方がわかっているというのが大前提だろう。

 要するに、漢字で書かれている語は読みがわからないと並べ替えができない。しかし欧米の言語はアルファベットだけなので、そのまま並べればいい。……ここに大きな違いがあるわけだ。さらに翻訳の場合、Waterlooを英語式に「ウォータールー」と訳せば「ア行」に入るが、フランス式に「ワーテルロー」と訳せば「ワ行」に入ることになる。

 かくして日本の“裏切り者”たちは、著者に会えば「あなたの名前はどう発音するんですか?」と聞き、作品にPeterという人物が出てくれば「こいつは何人なのだろう」と考え込むことになる。英米人なら「ピーター」でいいが、ドイツ人だったら「ペーター」にしなくてはならないからだ。

 私自身、20年ほど前にNicholas Meyerという著者に会ったとき、初対面でいきなりこの「あなたの名前はどう発音するんですか?」をやって、怪訝な顔をされたことがある。いや「怪訝」というよりも、「なんだこの失礼な日本人は」という表情だったが、私が翻訳家で、日本では「メイヤー」なのか「マイア」なのかで揉めているとわかると、こう答えてくれた。

「グリンペン・マイア(Grimpen Mire)のマイアだよ」

 いささかマニアックな答えだが、これがシャーロック・ホームズ関係のイベントでのことだと言えば、おわかりの方もいるだろう。グリンペン・マイアは、長篇『バスカヴィル家の犬』の舞台となったダートムア地方にある沼の名前であり、シャーロッキアンにとっては非常に有名な地名なのだ。

 残念ながら、日本ではこのハリウッドでも有名な小説家兼脚本家兼監督の最初の小説の翻訳が、著者名「メイヤー」で出てしまったため、そう表記されることが多い(英和辞典『リーダーズ・プラス』などでもそうだ)。いつか直される日が来るだろうか。

 ただし、直接本人に聞いたからといって、絶対的に正しいカタカナ表記ができるとは限らない。同じ発音を聞いても人によって違うカタカナ表記をするのはよくあることで、いまだに意見の分かれる人名・地名があることは、みなさん知ってのとおりなのである。

この項続く



日暮 雅通(ひぐらし まさみち)

1954年千葉市生まれ。青山学院大学理工学部卒。
英米文芸、ノンフィクション、児童書の翻訳家。日本推理作家協会、日本SF作家クラブ会員。

著書:『シャーロッキアン翻訳家 最初の挨拶』(原書房)。訳書:コナン・ドイル『新訳シャーロック・ホームズ全集』(光文社文庫)、ミエヴィル『都市と都市』(ハヤカワ文庫)ヴァン・ダイン『ベンスン殺人事件』(創元推理文庫)、ラインゴールド『新・思考のための道具』(パーソナルメディア)、マクリン『キャプテン・クック 世紀の大航海者』(東洋書林)など多数。

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