インタビュー

Vol.17

漢字を手放さなかった日本語(後編)

沖森卓也


――今後の日本語研究や漢字研究の展望や、日本語学、漢字学、言語学というのがどうなっていくのかというのをお聞かせください。

今までどおり研究というのは続けられていくに違いありません。日本であるからこそ日本の言語、文学、文化は世界の最先端として研究されていくと思うんですけれども、ただ、歴史的研究はだんだんと従事する人が少なくなってくるだろうなということは実感しています。日本語教育が活発化するなかで、現代語研究というのはかなり進捗しましたけれど、そちらに人がとられた分だけ少なくなってきて、研究者の層は以前よりは薄くなってきたという印象があります。

ただ考えてみると、昔は国語国文学科が多すぎたとも言えるので、戻ったといえば戻ったのかもしれません。一時期、戦後の流れで短大や四大が増え、国語国文学科、日本語日本文学科というのはいちばん身近で、短大なんかは英語科か国語科だったんですよ。今はその学科が国際コミュニケーション学科のようなものになって、さらには、教員も留学生相手に日本語教育をする人たちに置き換えられてしまったという現状がありますよね。

これから大学で研究するのは難しいだろうなという印象を持っているんですよ。昔は大学というと研究をするところだったんですが、今は教育をするところだといわれることが多くなってきました。もちろん研究は自分個人のライフワークとして、教育は教育でする、と分けて考えられればいいんですけれど、教育に時間がとられているというのも事実ですから、研究のための時間がどこまで割けるかというと、以前よりは窮屈になってきたかなと。それと今は、テニュア(教授や准教授としての終身在職権)という定年までいられる終身雇用の人がいる一方で、助教、任期付きの教員が不安定な身分でいるという制度が広がっています。このような流れに乗ろうとすると、30歳過ぎごろまで大学院生でいなければいけないし、しかもポストも先細りで助教になれてもテニュアになれるかどうかわからないという時代なんです。大学に10年くらいいて博士号も取らないといけなくなったから、学費も10年以上払い続けないといけないというのも大きな負担に違いありません。大学を卒業したらすぐ就職したほうがよほどよく稼げるんじゃないかとも考えられるので、目先の効く人はあまり研究の方向に向かわないんじゃないかな。ちょっとさびしい感じがしますけど。

そう言うと暗いかもしれないんですが、逆に言うと、そういう難関を乗り越えて、でもやってみようと思う人たちが大勢出てきてしっかり研究をしてくれると、研究は積み上げられていくんじゃないかなとも思います。今はコンピュータを使った研究もできますし、もちろんコンピュータだけに頼った研究はやめたほうがいいとは思うんですけど、現代語に関しては短期間にかなり積み上げられてきたかな。ただそれをそのまま古典語研究に当てはめるのはやや難しい問題がありますけどね。現代語研究は大きなデータで現在の使われ方の縮図のようなものを作れば、構造を解析するのはやりやすくなってきたと思います。そちらの方面の研究というのはまだまだ進むでしょうね。

――先生のように、いろんなジャンルの方と共同で研究することによって、新たな歴史的発見があるということは、今後そういうやり方が増えていけば、これからもっといろんな発見があるのかなと思うのですが。

もちろん研究は個人のものなんですが、本文を解釈していくというところに、どの方面から見ても問題ないという客観性を求めて、独りよがりでないものは作っていけると思います。それを用いてどう考えるかというのが自分の研究範囲の問題になります。そういう本文校訂、注釈も含めて本文解釈というのはもっと進んでいってほしいと思います。一般にはテキストや注釈書が多くなると、その注釈のレベルも良くなるはずなんですけど、場合によってはレベルが下がっているんじゃないかというものもないわけではないんですよ。必ずしも新しいものが良いというわけではないし、たくさんデータがあるから良いというわけでもなくて、良いものと悪いものを見分ける目、いろいろあるなかで良いものをちゃんと評価できることがいちばん重要で、また、求められていることだと思われます。現代のように検索してざあっと結果が出てくると、上位にあるほうが良いと思ってしまいがちです。それに、検索結果がたくさんあると、全部が見られなくなってしまう。こんな点が良くないかなというか、逆に欠点ですよね。検索すれば本当にいろいろ出てくるんですが、それがかえってマイナスになっているような気がしますね。

――必ずしも数が多いから正しいとは限らないんですよね。

絶対そんなことはないですね。余計なものが入ってくると全体の判断が狂ってしまうこともあります。そういうなかにもヒントがあることはあるんですけど、まずは従来の定説というか妥当な解釈というのを頭に入れて、いろんなものを見ておくというのがいいと思いますね。そのためにはいろんな本を読んで、研究史を頭の中に理解しておくということが重要です。ただ文献だけを探るっていうのは、玉石混交ですからやめたほうがいい。学生のレポートを読んでみても、どれを良いと判断しているのかわからないことがあります。どうもこの人は最初に出会ったものが悪いなぁと。最初の出会いというのは重要かもしれませんね。男女の出会いもそうかもしれないですけど(笑)。

――日本語に興味を持っている方に、注目してほしいことはありますか。

現代を知るためには少し前の時代の、あるいはもっと前のものから今に至るまで、どのように形作られてきたかということを見てほしいですね。現代語を研究するにしても、少し時代を遡って、現代語というと東京の言葉が共通語として用いられていますけれど、遡っていくと江戸語というか、江戸時代の江戸の街の言葉に遡ります。18世紀半ば以前は江戸らしい言葉というのはなくて、その後に江戸という、幕府のお膝もとの言葉というのができたんです。ですから、250年くらい前までは遡って考えてみてほしいなと思いますね、語彙にせよ文法にせよ。文字の場合はちょっと違いますけどね。文字はもっと古くなければいけないでしょう。文字というのは日本語の歴史の中ではあまり変わらないんですよ。文法や語彙は入れ替わりがどんどんありますけど、文字はひらがなカタカナが作られた段階からほとんど変わっていません。あとは濁点を打つとか、読点を打つとか、鍵括弧をつけるとかであって、でも文字の中心的なものは平安時代からあまり変わっていないとも言えます。250年くらいの遡り方ではちょっと少ないので、もっと遡ってもらいたいと思います。

もう一つは、言葉の意味やニュアンス、語感などにももう少し敏感になってもらえるといいのかな。そうすると言葉の使い方にも新しい発見があるのではないかと思います。

――ありがとうございました。


沖森 卓也(おきもり たくや)

国語学者。立教大学 文学部教授。

三重県伊賀市出身。専門は、日本語学、日本語史。
著書に『日本の漢字一六〇〇年の歴史』ベレ出版(2011年)、『はじめて読む日本語の歴史』ベレ出版(2010年)、『日本古代の文字と表記』吉川弘文館(2009年)、『日本語の誕生―古代の文学と表記(歴史文化ライブラリー』吉川弘文館(2003年)、『日本古代の表記と文体』吉川弘文館(2000年)。
編著に『日本語学概説』朝倉書店(2010年)、『日本語史概説』朝倉書店(2010年)、『図説 日本の辞書』おうふう(2008年)、『資料 日本語史』おうふう(1991年)、『日本語史』おうふう(1989年)、共著に『図解 日本の文字』三省堂(2011年)、『図解 日本語』三省堂(2006年)、『出雲国風土記』山川出版社(2005年)、『日本語表現法』三省堂(1998年)。共編著に『三省堂常用漢字辞典』三省堂(2013年)、『三省堂五十音引き漢和辞典』三省堂(2004年)、『ベネッセ表現読解国語辞典』ベネッセコーポレーション(2003年)、『日本辞書辞典』おうふう(1996年) など。

あとがき

漢字を手放さずに使い続けていた日本人と日本語のこれまでと、これからの漢字と日本語のあり方とを改めて考えさせられるお話でしたが、いかがでしたか。
日本語として深く浸透している漢字を、これからも大切に、そして上手に活かして使い続けていければいいなと思います。

漢字や日本語について、いろいろな側面からいろいろな方にお話をお伺いしてきました「超漢字マガジンインタビュー」ですが、今回をもち終了とさせていただきます。今までご愛読いただきありがとうございました!
最後に、お忙しい中を快くインタビューに応じていただきました方々にも、この場をお借りして、心より御礼申し上げます。

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