インタビュー

Vol.14

翻訳には賞味期限があるんです――『裏切り者の日々』の裏側(前編)

日暮雅通

翻訳家は仲介者


――翻訳家というのは、作品をリアルタイムで訳している場合は、著者と同じ時代を生きているわけですが、古い本を訳すとなると、読み手の時代に立っておきながら原著者の時代も理解して伝えなくてはいけない仲介者の立場にもなると思うんですが。

最近よく言っていることですが、翻訳というのは単に言語を変えるだけではなくて、橋渡しの行為だと思うんです。一つは言語の橋渡し。もう一つは昔の作品や古典を訳す、時代の橋渡し。昔の人が読んだものを今の人向けに伝えることですね。あと一つは文化の……異文化の橋渡し。ホームズだったら百何十年前という昔の歴史的背景と、イギリスの文化という両方ですね。この3つの要素があるんじゃないかと、最近よく思います。翻訳家というのは、単に横のものを縦にして意味を通すだけではなくて、文化の橋渡しをしているんだと。特に、昔の誰も知らない時代の人の小説を訳すような場合は、現代ものを訳すときとは違う難しさがありますね。最近は、生きている著者だったらメールなどで直接何でも聞けますが、すでに死んでしまった人には聞けませんからね。逆に、すでに死んだ著者の代弁者にならなければならないというのは、非常に難しいものがあります。日本語でしか読んでいない人は、「ああ、この著者はこういうふうに書いていたんだ」と訳文から推し量るしかない。僕らは両方というか原文を読んでやっているわけですが、僕らが日本語にした部分がそのまま受け取られて、もしそれが誤解されるようなことになったらまずいなと、いつも思います。

――翻訳家というのは実は大変な立場にあるのですね。

資料の調べ方


――著者は著者の持っている知識や頭で考えたことを基にして創造や創作をしていますが、翻訳家は自分の知っていることだけではなくて、著者のことも知らないといけないですよね。

オリジナルの本を書く側、つまり著者側は、自分が知っていること、自分が考えていることを本にするわけです。でも翻訳する側は、その著者のもつ知識をすべて知っているわけではない。同じ知識に至るまで調べたりして補完しなければならないんです。原著者よりも翻訳家のほうがたくさん調べ物をしているというケースも、ありますよ。

――その分勉強しなければならないんですね。

原著者というのは、自分の得意分野は当たり前のように書きますが、その分野について必ずしも翻訳側が得意とは限らないわけです。

――調べ方というのはここ十数年の間に、インターネットの普及で劇的に変わったと思うのですが、以前は関連書や新聞雑誌で調べるしかなかったわけですよね。

昔はまず図書館、それから類書……参考書はひとつの原書があったら10冊~20冊くらいは関係の本を買ったり借りたり、どこかに行って読んだり、図書館に行って調べたり、それからコピーして抜き書きして……そういう手間はものすごく大きかったですね。昔のほうが外出していたかな(笑)。今はほとんど家にいてPCの前とか……図書館も他館からの取り寄せができるようになったので、図書館にさえ行かないで済んでしまったりしますね。

――昔は引用元の書誌データを取るためだけに国会図書館に行ったりしていました。

今でも必要な資料が見つからないときはあるし、手っ取り早いのは国会図書館なので、まったく行かないということはありませんね。でも、昔だったら不可能なことまで、インターネットである程度調べられるようになりました。そのかわりインチキなデータも多いし、信憑性のない情報もけっこうあるから、フィルターにかけるのも大変ですけれど。

――複数の裏づけが必要になりますよね。

そういうときは、できるだけ実際に活字になっているものを探しますね。インターネットに書かれているものは参考程度で、資料を調べるきっかけやヒントとして使っています。どこを調べたらいいかというきっかけだけでもネットでもらえると、僕らとしては本当に助かります。誰に聞けばいいかとか、専門家がすぐわかるとか、いろんな意味でネットの恩恵をこうむっていますね。

――翻訳に必要な言葉を探して使うというのも大変な苦労がありそうです。

カタカナ語だけの問題ではなく、ひとつの単語でも業界によって意味が違っていたり、ひとつの意味について、ある業界ではこの単語をあてているけれど、別の業界では別の単語をあてている、とうことがあります。たとえば、ある作品の登場人物に保険関係の専門家がいたりすると、保険用語が出てきます。それは保険用語の専門家らしい単語をあてないといけないんですが、普通の辞書で見た単語をそのままあててしまうと、「これは素人の翻訳だ、訳者はわかっていないんじゃないか」ということになってしまうんですね。この用語を保険業界では何と言っているんだろう、どんな日本語をあてているんだろうということを調べるには、専門家のサイトに行けばすぐわかるので、ネットがとても役に立ちます。この問題はいろんなジャンルでありますね。最近の仕事の例だと心理学をネタにしたホームズがらみのノンフィクション、心理学の先生がストーリーの中からホームズの思考や考え方を分析している本(『シャーロック・ホームズの思考術』)があるんですが、心理学用語が出てきます。日常的に使っているような単語でも、心理学者が使うと違うカタカナ語になったり日本語になったりするということもあるので、ネットは非常に役に立ちます。

――辞書はどうされていますか。

最近は、紙の辞書をあまり使わなくなりましたね。英語専門の、英和辞典や英英辞典、百科事典は、あまり紙のものを使わなくなりました。ただ、ほかの特殊な用語辞典、それぞれの専門分野のものとか、普通の辞典ではないもの、英語よりはフランス語やドイツ語というのは、まだ紙の辞書を使っています。俗語辞典はうちにも10冊20冊単位で置いてあって、見るのも大変だったんですが、今はネットで一発で探すことができて、「このページになくてもどこかに飛んでいけば、それによってある種のどの辞典に載っているかがわかる」とか、そういう手助けがあるので、俗語についてはけっこう助かっていますね。一番大きいんじゃないかな。辞書がなくても、どこどこの人がこういう俗語について書いてくれている、という情報も手に入りますし。ネットに「アーバンディクショナリー(Urban Dictionary)」という、現代俗語についてさまざまな人がひとつの単語の意味や解釈を持ち寄って書いているサイトがありますが、そこはいろいろありすぎて信憑性のないものもあるし、そこから意味を探し出すのは面倒くさいですね。データがありすぎるのも困ります。

――昔は辞書に直接書き込んでいたというお話を以前に伺いましたが、ネット上の辞書には書き込みできませんよね。どうやってまとめられているんですか。

僕はいつも使う英和辞典に、「辞書に載っていないけれど表現をこうしたらいいんじゃないか」というアイディアや、ほかの資料から持ってきた情報を書き留めていました。それはそのまま置いてありますよ。本当は新しい辞書に写さないといけないんですが、写してないまま、紙の辞書をほとんど使わなくなってしまいました。それで今しかたなく、Excelで自分専用の辞書を作っています。パソコンで使う辞書でも自分で書き込めるものがありますが、そうじゃなくて独立したものを作ってしまおうと思って、作り始めたところですね。

Googleを辞書代わりにして調べることもあります。でも、それで調べてこう決めましたというまでに、毎回10分、20分かかってしまって。だったらいったん調べて便利だった言葉はExcelに写しておく、ということを始めています。翻訳家の中にはネットが興隆する前にも、コツコツと貯めた単語や言い回しをアドバイスとして辞書的な本にしている人もいます。もう2、3人そういう辞書を作った人がいますけれど、それはその人のための辞書でもあるから、自分の使いやすい辞書を作っていかないといけないなと。本当なら、今ごろはそういうことは人工知能がやってくれることになっていたんだけど、どうなってしまったんでしょうね……(笑)。

本当は僕も、モバイル端末を使いこなして、歩いている間に思いついたらすぐに辞書に書き込んでいくとか、翻訳も紙は使わないでPCを使うとか、そうやっていけばいいんでしょうけれど、いまだに翻訳する場合は紙の原書があって紙の原書に書き込みながらやらないとだめというか……僕は書くことによって自分の頭の中が整理されたり、刺激されてアイディアが出てくるタイプだから、直接書かないとどうしてもだめなんですね。

――紙の上だからこそ気がつく点や疑問に思う点もでてくるんですよね。不思議なことに。


日暮 雅通(ひぐらし まさみち)

1954年千葉市生まれ。青山学院大学理工学部卒。

英米文芸、ノンフィクション、児童書の翻訳家。日本推理作家協会、日本SF作家クラブ会員。
著書:『シャーロッキアン翻訳家 最初の挨拶』(原書房)。訳書:コナン・ドイル『新訳シャーロック・ホームズ全集』(光文社文庫)、ミエヴィル『都市と都市』(ハヤカワ文庫)、マリア・コニコヴァ『シャーロック・ホームズの思考術』(早川書房)、ヴァン・ダイン『ベンスン殺人事件』(創元推理文庫)、マッカートニー『エニアック』(パーソナルメディア)、ラインゴールド『新・思考のための道具』(同)、マクリン『キャプテン・クック 世紀の大航海者』(東洋書林)など多数。

あとがき

普段なにげなく読んでいる翻訳作品の裏には、目には見えないご苦労や経験や知識に裏打ちされたさまざまな工夫が凝らされているのですね。

インタビュー後編は、エッセイ『裏切り者の日々』に関するエピソードや、時代や文化を超えて愛される作品を翻訳する意義についてお伺いします。次回の超漢字マガジンインタビューをお楽しみに!

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